密かに日記を書いている。いつもではないけれど、気が向くと記録をしている。
今はTwitterなどSNSで気楽に書き散らす事ができるけれど、あれは何かが違う。どう違うかというと、リアクションを恐れるところがあるのだと思う。
「いまこんなことを思っているのだけど、実際に書いたらどんな反応があるかな」と言う恐れだ。いや「恐れ」は言い過ぎかもしれない。言うなれば面倒臭さだ。
一時代を築いたブログと、今主流のSNSではリアクションの速度も数も桁違いだ。そこに他者との強い繋がりを感じて喜びに換えられるならいいが、あの即効性に疲れを感じるのも事実なのである。
その点、ブログの反応を期待しない気楽さは好ましかった。
実は昔、本の感想を書くブログをやっていた時代がある。感想なんて個人のたわごとだ。好きに書きたいものだ。私の感想を読んだ人が、まれにちょっと心動かされて手に取ってくれたなら幸い。
しかしダメなんですね、片っ端から記事に難癖を付けてくる人がいるわけだ。
「私の方がすごい本を知っているwww」「そんな本はクソwww私の読んでいる本の方が1000倍素晴らしい!!!」
と言う趣旨のコメントである。実際に読んだ上で「クソ」と批評をするならまだしも、読まずにクソと決めてくるのである。呆れる。
そんな嫌がらせに面倒臭くなって本のブログをやめてしまったが、今思うと勿体無い気がしている。
実は本の感想なんてどうでもいい。
本を読んでいた自分の在り方が、いつか愛おしく感じる瞬間がある。
10年前の日記を読み返していて、読んだ本のタイトルが出て来ただけで、パッとその時の光景が浮かんでくるのだ。
この本はどこで買った、どこで読んだか。誰かに譲った、譲られたなど様々なシチュエーションが思い出される。
無論、くだらない本も無数にあった。だがそれでも、本を選び、買い、読むという能動的な行為は記憶のトリガーを引く。その時の空気を瞬時に呼び戻す。
たとえば。高橋克彦「私の骨」(角川ホラー文庫)を読んだ時は、私は実家に泊まっていた。読んでいると母が「すごいタイトルだね」と言ったのを覚えている。本の内容は覚えていない。だがいいのだ。あの空気感を永遠のものにしているのは、たった1冊の本の記憶なのだ。
まだあるぞ、作者名も思い出せない「MORSE」は休日出勤の電車の中で読んだ。埼京線だった。ガランとした電車内の空気感を覚えている。その本は自分には全く合わなかったのだが、あの電車内を永遠にものにしたのは本の力だ。
そんな風に、石鹸の泡のように消えていく一日を彫刻のように留めるのが本の力の一つなのではないかと思っている。内容なんて、まあ面白いに越した事はないけど、つまらなくてもとりあえず「読んだ」という事実が、力強くその日その時間その瞬間を語っている。そんな気がしてならない。
私は電子書籍もかなり読んでいる。だがこれは記憶に残らないのだ。後で振り返ってもどんな状況で読んだかいまいち思い出せない。
やはり書籍という立体的かつ現実的な存在が記憶と結びつくのだろうか。
ただし例外はあって、スマートフォンで読んだものは忘れているが、専用のKindle電子端末で読んだものは少し記憶に残っているのが面白い。
別に電子書籍を批判するわけではない事は断っておく。